【鬼滅の刃】鬼舞辻無惨は平将門がモデル!? 鬼殺隊の出身地もヒントに![歴史学科教授 監修]

の記事によると 鬼滅の刃の鬼舞辻無惨のモデルはやはり平将門らしい。

そう考えるとお館様の産屋敷家は桓武平氏の末裔である武士の系統と設定されるので、鬼殺隊の様な私設の抜刀部隊を持っているのも理にかなっている。

 一昨日の投稿の鬼舞辻無惨(平将門)の封印をわかり易くGoogle earthで再現してみました。

多少のズレはお許し下さい(笑)

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先ずは将門の首塚を囲む封印。
不死川実弥・玄弥(しなずがわ・さねみ・げんや)兄弟(中央区京橋)、栗花落(つゆり)カナヲ(墨田区本所)、胡蝶しのぶ(北区滝野川)、我妻善逸(あがつま・ぜんいつ)(新宿区牛込)、冨岡義勇(中野区野方)、煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)(世田谷区桜新町)、甘露寺蜜璃(かんろじ・みつり)(港区麻布台)などの出身地があり、これらは首塚のある大手町(旧麹町区)をぐるりと囲むように配置されている。

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もう一つは炭治郎の出身地・雲取山であり、将門に由来のある封印。
悲鳴嶼行冥(ひめじま・ぎょうめい)(日の出山)、時透無一郎(ときとう・むいちろう)(景信山)、嘴平伊之助(はしびら・いのすけ)(大岳[おおたけ]山)の出身地があり、将門が逃走した雲取山を都心部からさえぎるように配置されている。

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伊黒小芭内(いぐろ・おばない)の出身地・八丈島は封印は図面上雲取山の封印と解釈しました。



先ずは本題に入る前に東照宮とは何かについて簡単に説明しましょう。

東照大権現たる徳川家康を祀る神社です。

家康の遺体が眠る久能山の東照宮、本宮である日光東照宮は有名なところですが、3代徳川家光による諸大名への造営の進言もあり、全国で500社を超える東照宮が造られました。

つまりは東照宮を造ることは徳川幕府への忠誠心の証のようなものだったのでしょう。

政宗の死後仙台藩では大火や洪水が相次いで起き、藩の財政が逼迫したために2代藩主忠宗は幕府に10万両の借用を願い出ました。

その金子によって仙台藩は財政難の急場をしのぎ、その幕府よりうけた恩恵と幕府に対する忠誠の印として3代将軍徳川家光に東照宮勧請を願い出、直々に許可を得る。

伊達家の威信をかけた仙台東照宮は総工費は約二万二千五百両。

現在のお金で換算すると29億2千500万円もかかっています。

忠誠心もここまでくると疑う芽もありません。

そして仙台城の鬼門のことですが、仙台城と東照宮の完成までの時間の開きは半世紀もあります。

結論から言いますと当初の仙台城の鬼門は定禅寺を筆頭にした寺社群で、後に東照宮を北東の位置に置く事で、鬼門鎮護を厚くしたものと思われます。

家康が神である東照宮を鬼門に置くことは幕府に対して無礼ではと考えてしまうものですが、家康は既に死して国家鎮護の神、東照権現として全国に勧請されている訳ですから鬼門鎮護は当然とも考えられます。


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 仙台城復元CG

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仙台東照宮

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榴岡天満宮

これまでの時系列を確認します。

1603仙台城完成
1616 徳川家康公死去
1636 政宗公死去
1649 仙台東照宮建設許可申請、着工
1651 徳川家光公死去
1654 仙台東照宮完成
1658 二代藩主忠宗公死去
1667榴岡天満宮(天神社移転)完成
  仙台六芒星の完成




ここからが本題です。
実は江戸城にも天海によって東照宮を鬼門に配置する前例がありました。

それは四大東照宮の一つとされる上野東照宮です。

"天海は、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされる。天海は、江戸城の北東に寛永寺を築き、住職を務めた。寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、江戸城の鬼門鎮護を厚くしたとされる。"
〜Wikipediaより引用〜

1627年のこの件は1654年に建立された仙台東照宮の建立にそっくりです。上野東照宮建立に際して神田神社を移す。仙台東照宮建立に際して榴岡天満宮を移す。
更に両方とも鬼門鎮護を厚くする為に東照宮を建立している。

分かりやすいようにGoogle earthで図面化してみました。(多少のズレはご容赦下さい)

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江戸城の鬼門

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仙台城の鬼門

つまり「星の街✡️仙台」の仙台東照宮を鬼門に建立することは幕府への隠蔽ではなく、前例のある話なのです。

但し、六芒星は隠蔽させていたかも知れません。

その本当の真意は謎のままです。

かなりの長文になってしまいました。

次回は1607年に建立された大崎八幡宮へ。仙台東照宮と同じ大工の棟梁梅村の一族で作られているとのこと。
私は専門家ではありませんので、間違いや意見、新しい情報があればコメントをお願いします。




仙台六芒星巡り、当初は反時計周りで大崎八幡宮に行く予定でしたが、「仙台六芒星再考⑦大胆な仮説」での榴岡天満宮の由緒が気になり、急遽榴岡天満宮に行くことに。

静謐という感覚が伝わる場所で、松尾芭蕉による「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑をはじめ、多くの文人墨客の句碑・歌碑があり、「俳諧碑林」とも言われる碑群も風情があります。

菅原道真を祭神とすることやその句碑・歌碑と共に筆塚があるのも一つの調和を感じさせられます。

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撫で牛

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榴岡天満宮の松尾芭蕉拝碑

では本題に入りましょう。
 
天満宮の由緒によると"慶安3年(1650)徳川幕府の命令による仙台東照宮建立に際し、その境内地東側に御遷座がなされた。
そして、寛文7年(1667)7月25日に三代藩主伊達綱宗公の意思により、丹塗りの社殿・唐門を新たに造営し、菅原道真公の真筆(直筆の書)が奉納され、現在の鎮座地である榴ヶ岡に御遷座が行われた。"

とあります。

一方仙台東照宮の由緒には
"徳川家に対する尊崇・感謝の標として、1649年(慶安2)に時の将軍徳川家光公に東照宮創建を願い出て直々に許可を得る。"

仙台東照宮の創建に際し、方や幕府からの命令でもう一方は仙台藩から願い出たという矛盾があります。

そして「星の街✡️仙台」では仙台城の鬼門に東照宮を勧請することは幕府側には秘密とされていて、政宗は幕府転覆を狙って仙台六芒星の結界と東照宮を鬼門に配置したという説がありました。

「星の街✡️仙台」については詳しく内容は知りませんが最初のページのここだけはしっかりと読んでいます(笑)

先日、Facebook歴史グループで徳川家康のブレーンとも言われる南光坊天海についての投稿があり、少し調べてみましたら…

実はその天海の風水を使った江戸の町造りが仙台城の鬼門に東照宮を配置したということのヒントになりました。

ここまで話すと既にネタバレかと思いますが、だいぶ長文になりましたので続きは次回に。

私は専門家ではありませんので、間違いや意見、新しい情報があればコメントをお願いします。


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