前回からの続き〜
奥州藤原氏が金色に輝く都市を平泉に築いていた頃、伊達家は藤原北家の武家であり、もとをたどれば都人、鎌倉時代初期までは関東の住人だったようです。
伊達氏の家祖が奥州征伐に参加して、武勲を上げ現在の福島県伊達に所領を貰ったことから伊達氏を名乗ります。
実は伊達家は源氏と深い繋がりを持つことで勢力を拡大していた節があります。
源頼朝による奥州征伐、足利家との縁戚関係、そして徳川家康…
伊達家が目指していたものは奥州を勢力下に置くこと、つまり奥州探題だったようです。それが外交や戦いを粘り強く何代にも渡り続け、実現するのは15代当主晴宗、そして政宗の父である16代当主輝宗の頃です。
ここまでの話だと政宗は都の藤原氏を祖とする和人であり、蝦夷とは無関係ではと疑問に思うかもしれません。
奥州征伐で滅ぼされた俘囚蝦夷の長と呼ばれていた奥州藤原氏も実は藤原北家の系統で和人という説もあります。
これに関して過去に奥州藤原3代のミイラを分析した結果が出ている。
体型は和人、しかしミイラには脳漿や内臓を抜き、性器を切り取った痕跡がある。
死体に手を加えるのは蝦夷の風習であり、体型に関しては長い世代で都の女性と交わることにより変化していったのではという説もある。
つまり伊達家が伊達と名乗る頃には蝦夷と和人との区別は血の交わりにより、殆ど無かったのではと考えられる。
更に徳川家康自身が藤原氏の末裔で系図を清和源氏の末裔とねつ造したように伊達家が藤原北家の末裔とする根拠は以外と乏しいものです。
では、六芒星の2つの対になるものは何かと考えてしまうのだが…
実は奈良時代、以前お話しした780年の伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の乱の前後に大和朝廷は東北地方で服従した蝦夷(俘囚)を傭兵として全国各地に大規模な強制移住をさせた経緯がある。
この話が日本の歴史に大きく関わり、もしかしたら六芒星にも関わってくるかと。
だいぶ長文になりましたのでこの続きは次回に。
私は専門家ではありませんので、間違いや意見があればコメントをお願いします。