西武新宿線を降り、歌舞伎町の前を通り店に向かう途中の朝の新宿は嘔吐 と生ゴミの柑橘系の酸っぱい匂いが漂い、カラスが残飯を漁る荒んだ風景の記憶が今でも蘇る。

1997年の2月に東北の田舎から赴任してきた自分にとっての東京の人達の第1印象はと言うと

「なぜ、人混みの中を急いで歩くんだろう?」

「どうして、大して寒くもないのに満員電車でダッフルコートを着ているのか?」

そんなことを漠然と不思議に思っていた。

後者に関しては、その翌シーズンの冬は今まででもあまり経験が無いほどのダッフルコートがよく売れた年であり、感じた違和感は寒いから着ているのではなく、ファッションだからであり「トレンドの兆し」もあったということはその時は知る由もなかった。

それはさて置き、1975年に新設され、かつて「ファッションの殿堂」と言われたその場所は新宿東口のオリンピックビルにあり、地下1階から地上4階まで同一の会社のブランドで占められていた。

その地上1階から3階までが同ブランドのメンズショップで私が在籍していた場所でもある。1階がドレスシャツにネクタイとカジュアルウェア、2階がジャケットにパンツ、3階がスーツコーナであった。

当時、田舎の店とは比べものにならない位、新宿では簡単に服が売れた。今思えばやはり都会と地方との年収の差が原因だと想像できるが、本人は
「都会の人はきっと寂しんだよな〜、ちょと優しく
接客するとみんな簡単に買ってくれる。」
そんな風に変な思いこみをしながら、日々仕事に励んでいた。

さすがに大都心の大型店舗だけあって、今迄経験したことのない当番制の業務も多かった。

朝フロワーごとに大量の荷物を仕分けしたり、1階のウィンドーを曇りなく磨いたり、2時間おきに店頭のタバコの吸い殻掃除をするのである。

当時は今と比較すると路上での喫煙率は高く、あっという間に店頭は多くの吸い殻が投げ捨てられていた。

店内も3階のスーツコーナの長テーブルには常に灰皿が置いてあり、お客様が喫煙することは普通でしたし、スタッフも主に従業員用に使われていた階段の踊り場で大口の販売をした後や気分転換に一服するというようなことは当たり前で、今思えば喫煙に関してはちょと緩い時代だったのかも知れない。

そしてこの新宿の店はブランドのフラッグショップということもあった為、結構スタッフの出入りは激しかった。昔はかなり個性的なスタッフも多かったし、やたら面白い人や、やんちゃな人(怖い人)なども結構いたが、そういう人達が自ら去っていったり、淘汰されていくような時期でもあった。

私も1年ほど在籍して移動になった。

それから2年後、2000年にはそのフラッグショップも閉店する事になり、四半世紀の歴史にピリオドを打つ事になる。

その後はそのビルは大手家電メーカーがお店を構えていたが、ある日本のファストファッションとコラボした業態変更をして2012年に別の場所に移転したため、空きビルとなり、2016年現在は昔の面影を残したまま、新宿東口の一等地でGRAFFITI(落書き)の名所になりつつある。

そして最近知ったのだが、隣の紀伊国屋書店も今度大幅に売り場を縮小するらしい。

2020年東京オリンピックまてにはこの場所も大きく様変わりするだろう。

これも1つの時代の流れでる。

『GRAFFITI (落書き)つわものどもが夢の跡』

すべてはうたかたの夢のようである。

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私はと言うとその後、会社の同僚と社内恋愛をして結婚し、子供を授かり、幸か不幸か未だに同じブランドの好きなアパレルの仕事をさせてもらっている。

変わる物もあれば、変わらぬ物もある。

少しは当時と比べると私も都会人になったかもしれない。

最近、自然と人混みのなかでは歩くスピードが早くなった気がする。




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